試練に耐える者の幸い

持田 明広(弁護士)

エステール北浜法律事務所・弁護士

詩篇121篇

私は山に向かって目を上げる。私の助けは、どこから来るのだろうか。

私の助けは、天地を造られた主から来る。

主はあなたの足をよろけさせず、あなたを守る方は、まどろむこともない。

見よ。イスラエルを守る方は、まどろむこともなく、眠ることもない。

主は、あなたを守る方。主は、あなたの右の手をおおう陰。

昼も、日が、あなたを打つことがなく、夜も、月が、あなたを打つことはない。

主は、すべてのわざわいから、あなたを守り、あなたのいのちを守られる。

主は、あなたを、行くにも帰るにも、今よりとこしえまでも守られる。

 

詩篇125篇

主に信頼する人々はシオンの山のようだ。ゆるぐことなく、とこしえにながらえる。

山々がエルサレムを取り囲むように、主は御民を今よりとこしえまでも囲まれる。

1. 都上りの歌

あの長い長い詩篇119篇が終わると、詩篇120篇から134篇まで「都上りの歌」 が続きます。イスラエルには、古くから、春の過越の祭、夏の7週の祭、秋の仮庵の祭 という3大祭があり、イスラエルに住んでいた人々は勿論のこと、近隣諸国に離散していたユダヤ人も、これらの祭に参加するために、エルサレムに参詣する習慣を持っていました。「都上りの歌」は、これらのエルサレムに巡礼する人たちによって歌われた巡 礼歌であると言われています。今日は、その中から2篇を取り上げて、学んでみたいと思います。

2. 詩篇121篇

1.  まず121篇は、賛美歌301番の歌詞にもなっている程有名な詩篇です。特に、1節と2節は、日本の多くのクリスチャンが暗唱している箇所でもあります。

 

この歌が巡礼のどの場面で歌われていたのかについては、幾つかの説に分かれているのですが、今日は、巡礼者が住み慣れた生活の場を後にして、いざエルサレムに向かおうとする際の門出の歌と理解して、話を進めていきたいと思います。

 

このように理解すると、1節・2節は、これからエルサレムへの長い旅に出かけようとする人の問いかけと信仰の再確認、3節~8節は、その旅に同行できない家族か関係者らによる、巡礼者への励ましの言葉ということになります。例えば、私がこれからエルサレムに上ろうとする巡礼者で、皆さんが私を送り出す者だとしますと、まず私が、1節・2節を「・・・」と歌い上げます。そうすると、次に皆さんが3節~8節を「・・・」と歌って、私を励ましてエルサレムへの旅に送り出すということになるわけです。

 

2.  このように考えると、1節の「山」とは、巡礼者にとって、希望をもって見上げる山ではなく、エルサレムまでの行く手を拒む巨大な障害物として迫って来る山ということになります。エルサレムは「天然の要塞」と言われるほど山や谷に囲まれた場所にあり、そこに到達するまでには、いくつかの山河を越えて行かなければなりませんでした。当時は、自転車やバスは勿論ありませんから、ごつごつした岩だらけの道を自分の足で歩いて旅をしなければなりません。また、有名な「良きサマリヤ人へのたとえ話」にも出て来るように、当時は盗賊がしばしば出没し、旅人を襲うこともあるような時代でしたから、旅をするには多くの危険が伴いました。ですから、いかに憧れのエルサレムとはいえ、離散者が巡礼の旅を決意するには相当の勇気と決断が必要であったと思われます。だからこそ、これから旅に出ようとする巡礼者は、エルサレムの方向の山々を見上げながら、現実の不安とおののきを感じて、《私の助けはどこから来るのだろうか》(1節)と自分の気持ちを正直に言い表したと思われます。

 

3.  しかし、大切なのはこの後です。巡礼者は、決して行く手を阻む山々を見上げ、恐れを感じただけで終わってはいません。その直後に、巡礼者は、さらにその視線を山々の上に上げて、《私の助けは、天地を造られた主から来る》(2節)と宣言しています。これは、困難を象徴する山々も、すべて「天地を造られた主」の御手の内にあり、この万物の創造者なる主が困難の中でも私を守ってくださるから、決して恐れる必要はない、という信仰の表明です。このように、目の前の試練ではなく、試練をも支配していてくださる主に目を向けることができる人は本当に幸いです。

 

私は、最近IBCにおられる2人の癌患者の方から多くの励ましを受けています。その内の1人は、吉府姉妹です。皆さんもよくご存じなように、姉妹はリンパの癌で入院され、大きな苦痛の伴う抗癌治療を受けながらも、姉妹の顔は入院する以前にも増して明るく輝いているように見えます。時々礼拝に参加されている姉妹を見ていると、創造者なる主が姉妹を支えていてくださることを感じて、本当に励まされます。もう1人は、吉見姉妹です。吉見姉妹は、今年の夏にバプテスマを受けたばかりですが、その直後に癌が発見されました。バプテスマの準備クラスの中で、姉妹は黒田牧師から、「バプテスマを受けた後も、神に従おうとする人には必ず試練がやって来ます」と言われました。それで、癌の告知を受けた時、「黒田牧師の言われた試練とはこのことだ」とピンと来たそうですが、同時に「これで、私も神さまに認められている」と感じて、この試練をむしろ喜びをもって受け止めることができたそうです。そして、今も入院しながら、見舞いに来る人々に、機会があれば「教会に行きませんか」と誘っておられるそうです。私は、吉見姉妹とはほとんどお話したことはないのですが、これらの話を徳光姉妹からお聞きして、本当に励まされています。

 

私は、吉府姉妹と吉見姉妹を、密かに「吉吉コンビ」と名付けているのですが、この「吉吉コンビ」は、癌という普通であれば耐え難い試練の中でも、その試練を見つめるのではなく、しっかりと創造者なる主を見上げておられます。だからこそ、とても試練の真っ只中にあるとは思えないような笑顔や言動が可能になるのです。

 

私たちも、試練の中におかれた時は、試練そのものではなくて、もう1つ視線を上に上げて、創造者なる主に目を向けるようにしたいと思います。それが、試練の中でも勇気と平安が与えられる最大の秘訣です。

 

4.  聖書に戻りますが、この巡礼者の信仰表明に呼応して、今度は回りの人々が、巡礼者を励まします。そのキーワードは、3~8節の間で6回も繰り返されている「守る」という言葉にあります。つまり、「主があなたを守ってくださるから、大丈夫だ」と繰り返し言って、これから旅立とうとする巡礼者を勇気づけているわけです。

 

では、主が何を守ってくださるかと言うと、まず巡礼者の「足」(3節)です。エルサレムまで行くための道は険しく、急な坂道もしばしば辿らなければなりません。そのためには足の力を欠かすことができません。これは、私たちの実際の必要をあらわしていると思われます。まどろむこともなく、眠ることもない主(4節)は、試練の中でも、私たちの肉体的、精神的必要をすべてご存じで、現実的な必要を満たしてくださり、私たちを守ってくださいます。

 

次に主は、私たちの「右の手」を守ってくださいます(5節)。右の手とは、通常私たちの利き腕であり、敵と戦うために必要な手であります。つまり、いざと言う時の最も大切な部分を意味しています。昼も夜も私たちを守ってくださる主(6節)は、試練の中でも、私たちの最も大切な部分を守ってくださいます。

 

次に、主は、私たちの「いのち」を守ってくださいます(7節)。この「いのち」と訳されている言葉は、「魂」を意味する言葉でもあり、新共同訳聖書では「魂」と訳されています。つまり、主は、試練の中でも、私たちの霊的な必要を満たしてくださるのです。

 

このようにして、周囲の人々は、巡礼の往路も帰路も主があなたを守ってくださるから(8節)と励まして、巡礼者を送り出します。不安と恐れも交錯する中でエルサレムを目指そうとしている巡礼者は、人々によるこの激励の言葉によって、大きな勇気が与えられたに違いありません。

3. 試練を恐れるな

1.  さて私は、今日、この詩篇121篇から、「試練を恐れるな」ということを、皆さんと共に分かち合いたいと願っています。

 

この詩篇121篇に出て来る巡礼者は、神殿のあったエルサレムを目指して旅立とうとしているわけですが、私たちクリスチャンは、言わば、天のエルサレムつまり天国を目指して人生を歩んでいる巡礼者である、と言えます。エルサレムに辿り着くまでに、いくつかの山々がその障壁となるように、私たちも、天国を目指して人生を歩んで行こうとする時に、大小いくつかの試練が必ず待ち構えていることを経験するのです。

 

2.  時々、「クリスチャンになると、神さまの祝福や守りがあるから、苦しいことや辛いことは一切なくなるはずだ」と考えている人がいます。そのような人は、試練や困難が襲ってくると、立ち所に信仰の道からドロップアウトしてしまいます。キリスト信仰を一種の御利益宗教のように考えているからです。しかし、信仰による神さまの本当の祝福は、むしろ試練を通してもたらされるのです。

 

聖書を読むと、神さまに用いられ、大きな祝福を受けている偉大な人物は、すべて例外なく大きな試練を通らされていることがわかります。試練を通して、その人の信仰の不純物(神さまから見て不要なもの)が取り除かれ、信仰がより純化されて、神さまが喜ばれるように、用いやすいように変えられていくからです。

 

例えば、「信仰の父」と言われたアブラハムは、子供が与えられるという約束を神さまからいただいてから、実際に約束の子イサクが与えられるまで25年間も待たなければなりませんでした。その時、アブラハム100歳、妻のサラは90歳、人間的に見れば、すでに2人は子供を生む能力を失っていました。人間的な力に期待せず、ただ神の力だけに頼れるようになるまで、アブラハムは待たなければならなかったのです。また、イサクが与えられた約30年後には、その約束の子であるイサクをいけにえとして神にささげなければならないという最大の試練が訪れました。このような試練を経て、アブラハムは、「イサクをいけにえとして神さまに捧げても、神さまは必ずイサクを死者の中から蘇えらせてくださる」という全能なる神を絶対的に信頼する信仰に引き上げられました。それ故に、アブラハムは、「信仰の父」と呼ばれるまでの大きな祝福を神さまからいただくことができたのです。

 

また、ヨセフも、エジプトの宰相として神さまに用いられるようになるまでに、兄弟から殺されそうになり、またある時は、無実の罪をきせられて、牢屋に何年間も入らなければならない、という長くて辛い試練の時を通らなければなりませんでした。 モーセも、エジプトで奴隷となっていた総勢100万人を超えるユダヤ人を、約束の地カナンまで導きいれるために用いられた「史上最大の統率者」と言われる人物ですが、そのような器になるまでに、「エジプトの王女の子」という身分や特権、栄光をすべて捨てなければなりませんでした。また、約40年間の荒野での羊飼いの生活を通して、自分の弱さを徹底して知ることを学ばなければなりませんでした。

 

ダビデも、若い時に預言者サムエルから油を注がれ、イスラエルの王となることが約束されましたが、それが実現するまでの十数年間、サウル王から何度も命を狙われ、死線をさまようという厳しい体験を経ねばなりませんでした。

 

これらの人物は、このような多くの試練を経て、神さまに用いられるように変えられていきました。このように試練は、その人の信仰を成長させ、神さまの祝福を受けられるようになるためになくてはならないものなのです。

 

3.  私も、若い時に神さまを信じてから、長くて大きな試練を体験致しました。そのことを少しお話させていただきたいと思います。

 

したらいいですか」と今後の歩むべき道を祈り続けていた私に、神さまは、みことばを通して、司法試験を受けるように示してくださいました。私の心の中には葛藤がありました。「私のように、勉強が大嫌いでこれまであまり勉強をしたことがない者が、そしてその能力もない者が、しかも大学を卒業して数年も経つ者が、今から勉強しても、日本で一番難しいと言われる司法試験に受かるわけがない」と正直に思いました。また、「私が司法試験の勉強を始めたと知ったら、おそらく私を良く知る友人たちは、『持田は気が狂った』と言うだろう」とも思いました。しかし、神さまが「司法試験の道に進め」と言われるのですから、従わないわけにはいきません。私は、24歳の時、信仰をもってその第1歩を踏み出しました。

 

私が32歳で合格するまでの約8年半の間、私は、口ではとても表現することができない程、非常に辛い体験を致しました。例えば、1週間も1人住まいの文化住宅に閉じこもったまま、人とは一言もしゃべらないという孤独との戦い、すばらしい学歴を持ち、優秀な能力を持つ他の受験生と自分を比較することから来る劣等感や恐れとの戦い、原因不明の病気との戦い、30歳になっても定職がないみじめさや世間体を気にするという自分との戦い、そして、現状を見つめるのではなく神のみことばにどれだけ信頼するかという信仰の戦い、神のみ声よりも常識や自分の考えに頼ろうとする誘惑との戦いなど、いろいろな戦いがありました。この辺りのことは、「創造主を知った喜び」と「荒野の8年間」という証詞にまとめていますので、もし私の詳しい証詞(英訳あり)が知りたいという方がおられましたら、受付でお受け取りください。このような試練の中で、私の魂が神さまに向かって、うめき声、叫び声を上げない日は一日もありませんでした。決して大袈裟ではなく、聖書のみことばなしには生きることはできないという日々の連続でありました。このような中で、私の自己中心の塊のような魂は、神さまに取り扱われ、砕かれ、そして少しずつ練られていきました。試練は私にとって決してありがたいと言えるものではありませんでしたが、今振り返ってみると、この時の私の体験は、他の何事にも代えがたい貴重な体験となりました。この時の約8年間の試練があったことによって、私は、神のみことばに従うということがどんなにすばらしいことであるか、神さまはいかに真実なお方であるかということが体験的にわかったように思うからです。そして、この時の体験が弁護士になってからの歩みの中で、仕事やVIPクラブの活動を通して非常に生かされているのです。 

詩篇119篇71節に、

 

《苦しみに会ったことは、私にとってしあわせでした。私はそれであなたのおきてを学びました》

 

とありますが、本当にアーメンだと思います。

 

4.  去年の8月、このVIP関西センターの所有者の梅津善一さんが所属されている千里ニュータウンバプテスト教会の牧師夫人である小川幸子さんが腎臓癌で召天されました。幸子夫人は、教会員をはじめ誰からも大変慕われていた方であったようで、召天1周年の記念会でも、幸子夫人の思い出をつづった大変立派な追悼集「走るべき道のりを走り終えて」が出版されました。その本の中に、幸子夫人の最後となった言葉が記されています。それは、「自分の望んだ試練はひとつもなかったけれど、感謝しなかった試練はひとつもなかった」という言葉でありました。

 

何というすばらしい言葉ではないでしょうか。自分が望まない試練ではあったけれども、その試練によってどれだけ大きな祝福を受けて来たのか、幸子夫人は、その試練の恵みを良く知っておられたのです。

4. 詩篇125篇2節

もう1度、聖書に戻りたいと思います。詩篇125篇の2節をご覧ください。この詩篇は、巡礼者がエルサレムの神殿で参拝した時に使用される「都上りの歌」ですが、2節を見ると、《山々がエルサレムを取り囲むように、主は御民を今よりとこしえまでも 囲まれる》とあります。

 

この「山々」は、先程ご説明したように、かつては巡礼者に恐れと不安を抱かせた山々であります。それが今、エルサレムに到着してから、後を振り返って見ると、それら の山々が、今度は自分のいる神の都を取り囲んで守ってくれている砦の役割を果たしていることに気づくのです。

 

何と感謝なことではありませんか。私たちの人生の試練も同じです。その試練を乗り越えた時、私たちは、今度はその試練が私たちを守る砦になっていることに気づくので す。その試練の山が高ければ高い程、それを乗り越えた貴重な体験は、私たちのその後の人生にとって大きな砦となり、かつ新たな道を切り開く大きな力となっていくのです。

5. 試練は祝福の扉

1.  愛する皆さん。

あなたは、試練が神さまの祝福をもたらすものであることを知っておられましたか?

あなたは、試練に会うことを恐れてはいなかったでしょうか?

あなたは、試練があなたに襲ってきても、

神さまはそれを乗り越えさせる力があると信じていますか?

アーメンですか?

 

2.  カナダとアメリカとの間に、有名なナイアガラ瀑布があります。何年か前に、ある  アクロバット・スタントマンをしている人が、ナイアガラ瀑布にやって来て、その深  い淵の上に1本の長い綱を張りました。そして、樽を抱えて綱渡りの芸をしながら、綱の上を往復したのです。人々は、それを見て拍手喝采しました。次にその軽業師は、中に砂を入れた前よりも重たい樽を用意して、前と同じようにその樽を抱えながら綱の上を往復しました。それを見て、人々は前にも増して拍手喝采を致しました。

 

次にその軽業師は、観客に向かって、「樽ではなく、人を抱えて、私がこの綱の上を渡ることができると思うか」と尋ねました。観客は、「勿論だ」と答えました。軽業師は、観客の1人に近づいて、同じ質問をその人にしました。その観客は、「勿論ですとも。私もあなたにはそれができると信じます」と答えました。その答えを待ってから、軽業師は、「では、あなたが私に抱えられて、綱の上を一緒に渡ってください」と言いました。すると、その観客は慌てて、「いえいえ、私ではありません。他の人でないとだめです」と後込みしたそうです。

 

その観客は、軽業師が人を抱えたままでも綱渡りを成功させることができると信じました。しかし、自分がその軽業師に抱えられて綱の上を渡り切ることができるとは信じれなかったのです。つまり、その観客は、軽業師を信じているとは口では言いながら、本当の意味で軽業師を信頼していたのではなかったのです。

 

3.  愛する皆さん。あなたの信仰はいかがでしょうか?その観客と同じように、「神さまには不可能なことはない」と言いながら、いざ試練が自分の身にふりかかって来た途端に、「私はこの試練に耐えることはできない。取りのけてください」と神さまに不平、不満ばかりをぶちまけてはいないでしょうか。これでは、本当の意味で、神さまに信頼しているとは言えないのです。

 

どうか試練が突然襲って来たとしても、恐れないでください。逃げないでください。つぶやかないでください。神さまは、それによってあなたを祝福したいのです。あなたのすべてをご存じて、あなたを愛しておられる神さまは、決して耐えられない試練をあなたにお与えになるようなことはありません。神さまを見上げて、神さまに信頼してください。やがてその試練が終わる時、あなたは、信仰的にも人間的にも一回り大きくなった自分をそこに発見することでしょう。

 

試練は、祝福に至るための入口です。ですから、試練が来たら、主に信頼し、むしろ感謝をもってそれを迎えることができるような信仰に、皆さんも私も、お互いに引き上げられたいものだと思います。

 

以 上

 

参考文献

  • 新聖書注解・旧約3(いのちのことば社)
  • 新聖書構解シリーズ・旧約12(いのちのことば社)
  • clayクレイ2002年1、2月号(ハーベスト・タイム・ミニストリーズ)