神、共にいまして

S.tel 共子(アナウンサー)

■これは、2002年2月16日(土)、インターナショナルVIPクラブ<京阪> において行われたスピーチを修正・加筆したものです。

- 地上の父と天の御父 -

1. トモコのトモ

『トモコのトモは友達の友』という歌がありましたが、私の名前の場合は、『トモコのトモは共産党の共』でした。「共子」と書いて、トモコと読みます。亡くなった父、山田保一が付けてくれた名前です。

 

子供の頃は、この名前も父のことも大好きでした。いつの頃からか、自分の名前が好きではなくなって行き、それにつれて父との溝も深まって行ったような気がします。

2. とってもプロレタリアート

大正14年生まれの父は、岐阜県の寒村の出身で、15の歳には村でただ一人、選ばれて東京の逓信管理練習所に入り、敗戦後はマッカーサーの命令下、全逓の組合書記長として『レッド・パージ』を受けて、大阪へ流れてきたという筋金入りの共産党員でした。30年間の議員生活を含め、5年前に肝臓ガンで亡くなるまで、72年の活動家人生でした。

 

私が5歳の時、父は初めて高槻市の市会議員に立候補しました。もし当選すれば、市政施行以来『初の共産党議員』という時代でした。当時の我が家は『超貧乏』で、私と弟が保育園で着るスモッグまで誰かのお古という貧しさでした。私の記憶にある、当時の父母の姿は、まさに『清く、正しく、貧しく』で、寝る時間も惜しんで『世のため、人のため』に働いておりました。

 

その甲斐あってか、開票の結果、父は見事に初当選を飾ったのです。以後、高槻市議を3期12年つとめ、私が高校1年の時には、大阪府議会議員に初当選しました。革新府政の全盛期には、府下最多得票でトップ当選も果たし、府会議員としても4期目に入った父は、「次は衆議院か」と言われるまでになりました。

 

私はといえば、そういう父の娘として、絶対に道に外れた行動は許されませんでした。私たち家族の不祥事は、そのまま4年に一度の『清き一票』に跳ね返ってくるからです。小・中学校ではクラス委員を務め、専願で地元の進学高校に入るという、絵に書いたような優等生でした。でも本当はとても無理をしていました。私はずっと淋しかったのです。

 

私には、幼い頃から手ばなしで父に誉められた記憶がありません。いつも何かしら『物言い』がついたのです。学級委員に選ばれても、「昔の級長は組で一番の者がなったが、今のクラス委員なんて人気投票だ」と言われ、作文コンクールで入賞しても、「こんな汚い字でよく入選したものだ」と来るのです。今にして振り返れば、父は照れ屋で口が悪く、誉めるのが苦手だったのだと思いますが、子供心にはやりきれなくて、「どないしたら、お父ちゃんに誉めてもらえんねやろう?」といつも思っていました。

3. マイク1本さらしに巻いて

同志社女子大に進学する時も、「教育大にも入れんのか」と冷ややかでしたが、高い学費を何も言わずに出してくれたことは、信じられない驚きで、何度も頬をつねりました。

 

御所の緑に映える赤レンガの校舎は本当に美しく、入学式で初めて足を踏み入れた『蔦の絡まるチャペル』は、親から「神も仏もない。頼れるのは自分だけだ」と教えられてきた19の女の子にとっては、初めてのカルチャーショックでした。もちろん不真面目な学生でありましたから、礼拝はサボる、聖書の授業は『代返』という<ていたらく>でしたが、同志社女子大での4年間のキリスト教教育のベースがなかったならば、苦しいからといって、「教会へ行きたい」などとは言い出さなかったかもしれない・・・と思うと、数ある大学の中から『ミッションの同志社』に導いて下さった神様に感謝せずにはいられません。

 

女子大生の頃、私が何か新しいことを始めようとすると、必ず父から言われたセリフに、「それは世のため、人のためになることか?」と、「何の生産性もない!」がありました。私が捜してきたアルバイトのほとんどが、この名セリフには合致しませんでした。何とか許しが出たのは、家庭教師と選挙カーのウグイス嬢でした。村上弘氏(元日本共産党委員長・衆議院議員)の候補者カーで先輩諸姉にご指導頂いてから、父の選挙はもちろんのこと、高槻・島本・茨城・摂津などの市議選から大阪市や羽曳野の市長選挙にまで出かけて行きました。父と一緒に応援に行くと、私も喜んで迎えられました。あの頃の父は、文句も言わず、確かに楽しそうでした。私も、『世のため、人のため』と張り切っていたのです。

 

そんな私が選挙カーに乗らなくなったのは、皮肉にも趣味が高じてプロのアナウンサーになったからです。同女の3回生の時にオーディションに合格し、昼は大学の授業で京都へ、夜はNHKの大阪放送劇団付属研究所へ通うために大阪へという、ハードな生活を送りました。努力の甲斐あってか、4回生の頃には、一端のプロになって、ラジオのコマーシャルを読んだり、イベントの司会をしたりで、結構なお小遣いを稼げるようになりました。

 

初めて自分の声が電波に乗る時はうれしくて、「この番組は○○の提供でお送りします」といった短い放送まで録音したものでした。でも、次第に顔と名前が売れて、コマーシャルや司会のギャラも上がるに連れて、「私はプロなのよ。マイクを持つからにはそれなりの報酬を貰わなくてはしゃべれないわ」という風に気持ちが変わっていきました。

 

私の変化とは裏腹に、父は一層頑固に例のセリフを繰り返します。オーディションに受かり、ラジオ競馬中継のアシスタントになった時も、JRAニュースハイライトの初代リポーターに選ばれて「テレビに出るんだよ」と言った時も、父は「ギャンブルの片棒を担いで!そんな仕事は最低だ!」と言ってのけました。それでも、この頃までの私は、まだ父にとっては良い娘でした。文句を言いながらも、一方で『アナウンサーをしている娘』の存在は少し自慢でもあり、よく自分より大物の衆議院・参議院の先生方の選挙の折には、私を連れて行って、演説会や後援会のパーティーで司会をさせたりしました。「山田府議会議員よりも、お嬢さんに来てもらう方が有り難い」などと言われては喜んでおりました。

4. 結婚と離婚と勘当

そんな中、年頃になった私が「結婚する」と言い出しても、父は何も言いませんでした。今にして振り返れば、私の結婚のために、両親はできる限りの力を尽くしてくれました。また、結婚後に、(当時の)主人が会社を辞めて独立するという時には、父が事業の保証人になったり、貸事務所を探したり、税理士さんを紹介してくれたりと、様々な便宜を図ってくれました。主人のためというよりは、私のためであったと思います。

 

しかし、父の犠牲と協力に逆行して、主人が独立して始めた会社はうまく行きませんでした。もともと身体の弱かった主人は、お金と人のやり繰りに疲れ果て、ストレスが溜まって行き、いつもイライラして、薬ばかり飲むようになりました。「家に帰る時間も惜しい」と言って、何日も帰らない日が続き、ついには別居状態になりました。今日は帰ってくれるか、明日はどうだろうと思いながら、主のいない家で電話番をしている毎日でした。

 

当時の私がどれほど苦しかったかを申し上げたいところですが、思い出すのも辛く、1日も早く忘れたい日々であったことだけをご理解頂ければと思います。

 

2年近く別居していても、私は両親にそのことを話せませんでした。母に言えば、眠れぬほど心配することは目に見えておりましたし、ましてや、父には何も言えませんでした。

 

結婚して4年目、別居してから3年目のことです。主人にお付き合いしている女性がいることが明るみに出て、私は離婚を決意します。以前から耳に入ってはいましたが、それが事実だと知らされた時は大変なショックでした。19歳からマイクを持って10年の月日が流れていました。まだ29歳という、若い私にとって、このまま一人ぼっちで日々を過ごし、形だけの夫婦でいることは耐えられなかったのです。離婚届けを出す日にも、主人は「仕事があるから」と同行はせず、主人の母、つまり姑と私で市役所に出かけました。その時、姑から『慰謝料は一切要らない』という誓約書にサインをするように言われました。私から言い出した離婚ですから、「仕方がない」と思い従いました。この段階でも、私の両親は、まだ何も知らされていませんでした。姑から、「離婚届けを出し終えるまでは、実家の両親には何も言わないように」と言われていたからです。私は、両親の気持ちを思いやることよりも、「何でもいいから、一刻も早く自由になりたい」という気持ちで一杯で、父母に対しては、事後報告という形を取ってしまいました。薄々感じていたとはいえ、娘の離婚と言う重大事を結果だけ聞かされたのですから、さぞ無念であったろうと思います。

 

父は、私の顔を見るなり「出て行け!」といって灰皿を投げつけました。「おまえはもう我家とは何の関係ない。今後一歩たりともこの家に入ることは許さん」と言われました。父にとっては、最愛の娘からの突然の裏切りに合って、気も狂わんばかりだったのでしょう。母はショックの余り寝込んで、一辺に年を取って、梅干のように萎んでしまいました。

 

開けたとはいえ、片田舎の小さな町で、現職の府議会議員の娘が離婚するなどというのは、考えられないほど大きな失点で、父の政治生命を奪うには、十分すぎるダメージでした。父はそれからずっと、党にもご近所にも親戚にも、私の離婚のことを隠し通すことになり、『健康上の理由』という形で、次の選挙への出馬を断念して、後進に道を譲りました。父は「もっと頑張って下さい」という支持者の方の声を断腸の思いで聞いたことでしょう。

 

弟も会社の転勤で福岡に住むことになり、父の議員退職後は、老夫婦二人きりでひっそりと暮らすことになったのです。かつては毎日のように千客万来だった我が家は、まるで灯が消えたようになり、すっかり寂れてしまいました。私は、何度も「母に会いたい」と思ったことがありましたが、父に怒鳴られるのが恐くて、電話もなかなかできませんでした。

5. ベンツ・ショウルーム

夫と別れ、父からも勘当された私は、一人で自活して行かなければなりませんでした。表向きは優雅な『奥様アナウンサー』から、一転して全くの無一文になり、文字通り、食べるための職探しが始まりました。

 

幸いにも就職はすんなりと決まり、輸入車販売の最大手Y社のメルセデスベンツ販売部に入社、百倍の競争率を突破して、大阪市北区にあるRホテルのベンツ・ショウルームに配属されました。

 

当時の私は、悲しみから逃れるかのように、仕事に没頭しました。

 

バブルの波に乗って、入社2年目で、ショウルーム・レディの「全国販売コンテスト」で「最優秀賞」を受賞しました。

 

「元アナウンサー、ベンツのトップ・ショウルーム・レディ」という肩書きで、次々と講演依頼が来ました。F総研のカー・ディーラー・セミナーを皮切りに、Nサン、Mダ・Sキなど国産メーカーにまで出向いて、偉そうに講演する毎日が続きました。当時の私には、お金しか頼るものはありませんでした。「私は時給5万円よ!」と豪語して憚りませんでした。

 

でも、心の中は決して満たされていませんでした。新車のベンツを乗り回し、ブランド品で身を固めて虚勢を張っていなくては、一人で立っていられないほど淋しかったのです。

6. 教会へ行きたい!

そんな頃、別れた主人が、離婚の原因となった女性と再婚して、その女性のお腹には、離婚当時すでに赤ちゃんがいた、と聞かされたのです。姑の行動にも合点が行き、私は人間不信になりました。

 

救われた今であれば、主人も私と別れ、その女性も前のご主人と別れてまで一緒になったのですから、『運命の出会い』だったのだと思えるのですが、当時の私は、ただもう悲しくて、親しい友達に会えば、グズグズと恨みごとばかり言っておりました。

 

そんな私を励まし支えてくれたのが、プロ司会の後輩で、ずっと仲良くして頂いていたK.masako姉でした。彼女は私より一足先に救われて、イムマヌエル京都伏見キリスト教会に通っていたのです。この、神さまの哀れみ深いご計画には、今でも心から感謝しています。

 

辛いことが続いた上に疲労が重なり、ついに私は、その年の暮れに身体を壊し、お正月早々入院することになってしまいました。病院のベッドで寝ていると、どうしようもなく心細くなり、masakoさんに「教会に行きたいの!」と言って、連れて行ってもらいました。

 

教会に入って、席に座るなり、女子大時代に聞いたなつかしい賛美歌が耳に入り、私は胸が一杯になって、気が付くと声を上げて泣いていました。

 

不安な入院期間中、家族ですら見舞いに来てくれない私の病室に、masako姉は、ほとんど毎日訪ねて来てくれました。一度は、田辺淑子牧師(故・民雄師夫人)と一緒にお見舞に来てくれました。そのとき、淑子氏が下さったご本は、ラジオ牧師の羽鳥純二師が書かれたものでした。羽鳥師は、元赤旗の編集局長まで務められたバリバリの共産党員からクリスチャンに転身された方であると知り、父のことがダブって涙が止まりませんでした。もうその頃には、病室の枕元には、いつも聖書が置いてありました。

 

そして退院後は、救いを求めて、可能な限り教会に足を運びました。4月には、パスターハウスにて淑子師に導かれて、悔い改めを致しました。

 

しかし、洗礼を受けるには、大変な勇気が必要でした。幼い頃から神も仏も否定してきた両親のことを思うと、その教えに反して洗礼を受けるということは、離婚した以上に大きな裏切りになるのではないかと思われて、幾晩も悩んだ末にようやく決心しました。

7. 受洗の恵み

洗礼を受ける前夜、私は両親に手紙を書きました。まだ父に直接会って話す勇気はありませんでした。父が、自分の顔に泥を塗った私のことを許してくれてはいない、とわかっていたからです。

 

ショウルーム・レディ・コンテストで「最優秀賞」をもらった時でさえ、「外車をたくさん売ることが何の役に立つ? 日本車が売れなくなるし、第一車が増えたら排気ガスで空気が汚れる。おまえは、世の中に迷惑ばかりかけて生きている」と頭ごなしに言われたものでした。

 

父を乗せてあげようと、新車のベンツを走らせて実家に凱旋したのに、「ローンで買った」と言うなり、「借金だらけでどうするんだ」と怒鳴られたこともありました。父の退職祝いにと贈ったビーグル犬を見ても、「こんな耳の垂れ下った真っ黒い犬はいらん。どっかに捨ててこい」と子犬を足蹴にする始末でしたから、とても期待など持てませんでした。

 

洗礼の日、両親からは何の連絡も連絡もありませんでしたが、私は、信仰を持ったことを知ってもらえれば十分だと思っていました。ただ無事に受洗することができた喜びで一杯でした。

 

洗礼を受けてから数日後、母から電話があって、「教会の皆さんに迷惑をかけないように。しっかりと仕事も頑張るように」という父からの伝言を聞いたのです。離婚して、勘当されて以来、初めて聞いた父のやさしい言葉でした。神様がはたらいて下さったと思いました。その瞬間、ずっと抱いていた不安が消えました。心の平安が得られるというのは、こういうことなのでしょうか。もう一人で泣くこともなくなりました。たとえ一人ぼっちの夜でも、これからはずっと神様がそばにい居て下さるのですから、少しも淋しくはないのです。さらに不思議なことに、別れた主人に対する恨みの気持ちもすっかり消えてなくなりました。別れた主人も新しい奥さんも、生まれてきた赤ちゃんも、主人のご両親も、みんな幸せでいて欲しいと願えるようになりました。皆が幸せでいてくれて、初めて私も幸せになれると思いました。そして、この私こそ、「離婚」という試練なしには、決して救われることはなかった愚かな者ですから、神さまの大きな愛と深いご計画にただただ感謝致しました。

 

もちろん、まだこの時には、父が私のことを許してくれたわけではありませんから、父との確執は続いていました。私が会社を辞めて、企業研修の講師として独立しても、相変わらず、「お前は詐欺師と同じだ」、「お前の話など聞いても糞の蓋にもならん」と言っておりましたが、しぶしぶ飼い始めたビーグル犬の無心な姿だけは、父の頑なな心を癒してくれたようで、愛犬コロが何をしても、「コロはアホやないで。賢いで」と最期まで猫っ可愛がりでした。以前と一番違うのは、そんな風に父に可愛がられるコロを見ても、少しもうらやましいとは思わないのです。私は生れて始めて、「そのままでいいよ」と有りのままの私を受け入れて下さり、こんな私のことを「愛する」と言って下さる、ただ一人のお方、天の父なる神さまと出会えたからです。

8. 再婚と出産と父の死

私は、「父も母も救われてほしい」と願っておりましたが、なかなか伝道することはできませんでした。そんな中で、両親が一気にキリスト教に好意的になったのは、私の『二度目の結婚』がきっかけでした。4年前に現在の夫である福音交友会・京都聖書教会のS.ise兄と結婚しました。「貧乏でもいいから、温かい家庭を与えてください」という祈りの通りに、9歳年下の今の夫と知り合ったのです。夫は予備校で英語の講師をしていますが、授業中にも神様のすばらしさを生徒さんに語るような人で、気の強い者同士、顔を合せれば口喧嘩ばかりしていますが、主の確かなお導きを感じつつ暮らしています。

 

私にとって、とりわけ心に残っているのは、新しい姑(夫の母)のやさしい一言です。夫が私との結婚話を打ち明けた時に、「彼女、とっても年を取ってるんだ」と言うと、姑はすぐ「それじゃ、大切にしてあげなくちゃね」と言ってくれたそうです。『出戻り、年上、借金だらけ』の嫁を黙って迎えてくれた夫の両親と、こんな暖かい両親に育てられた夫を、私の家族として下さったのは、『主のあわれみ』以外にはありえません。

 

婚約式は、田辺岩雄牧師の司式にてイムマヌエル京都伏見キリスト教会で、結婚式は、大和昌平牧師の司式で福音交友会・京都聖書教会にて執り行われました。両方の両親とも出席してくれて、とても喜んでおりました。父はすでに肝臓ガンの末期でしたが、その日だけはとても元気そうでした。

 

その後、父の病気は次第に悪くなり、入退院を繰り返すようになりました。私は見舞いに行く度に、キリスト教関連の本を置いて帰りましたが、読んでくれたかどうかはわかりませんでした。結婚して2年目に妊娠がわかった時も、真っ先に病床の父に報告しました。父は大層喜んで、「今年6月に待望の初孫が生まれます」と年賀状に印刷させたくらいでした。まさか、その6月に父が死んでしまうなんて、この時は思ってもみませんでした。

 

高齢出産で長女が生まれ、放蕩の限りを尽くした私も、ついに母となりました。子供を産むというのは、文句無しに生産的なことですから、今度と言う今度は、父に誉めてもらえると思っていたのに・・・。初孫の顔をひと目見たその晩に、息を引き取ってしまったのです。

 

辛うじて意識のある時に、大和牧師がかけつけてくださり、枕元で、山田さん、山田さん、わかりますか。長い間、本当に頑張って来られましたね。山田さんの理想とされていた世界が天国にはあります。神様に全てをゆだねて天国に行くのですよ!」と言われました。もう動けないはずの父が、大きく右手を上げると、叫ぶように「アー・・・!」と言いました。最後の言葉となりました。

 

告別式は党葬となり、父の兄弟や親戚の意向で「仏式」で行なわれました。しかし、母も弟も、「大和先生のお祈りが一番よかった。お父ちゃんは、あれで天国に行けたと思う」といい、「お墓だけでも教会墓地に入れて欲しい」と申しました。教会員(私)の親ということで、京都聖書教会のお墓に入れてもらうことができました。今父の亡骸は、京都の西山霊園で十字架の下に眠っています。

9. お父ちゃん、ゴメンな…

でも、私は、「これでよかったのだろうか」とずっと気になっていました。「父は本当に救われたのだろうか。天国に入れたのだろうか…」という不信仰な思いが湧いて来て、「神様、父のことをお願いします」と祈っておりました。

 

父の死から1年も経って、ようやく遺品の整理を一気に済ませることになり、私は実家に帰りました。母は、「思い出すと悲しいから」と言って、病院から持ち帰ったダンボール箱をそのままにしていました。「生ものでも入ってたらどないすんの」と言いながら箱の蓋を開けると、中には、父が病床で読んでいた本や新聞が入っていました。『フランダースの犬』は夫から、『天国のニュースキャスター』は、私が贈った本でした。三浦綾子さん作の『母』はまだ読みかけで、栞の代わりに、共産党の新聞『赤旗』がはさんでありました。「ああ、読んでくれていたんだ」と思うと胸が熱くなりました。小林多喜二の母上が受洗されるくだりを、父はどんな気持ちで読んでいたのでしょう。

 

最後に、箱の底から二つ折りの厚紙が出てきました。数年前に亡くなられた、亀田得二氏(元・社会党代議士)の告別式のプログラムでした。所属政党は違いましたが、労働運動の先輩である亀田氏を父は尊敬していました。亀田氏は京大在学中に洗礼を受けられ、キリスト教青年運動から社会主義の道に入られた方で、父は、教会で行われた氏の葬儀に出て、「亀田さんの葬式は良かった」と言っていたのを思い出しました。…「お父ちゃん、ごめんな…」親戚の反対を押し切ってでも、「キリスト教式で葬儀を出す!」となぜ言えなかったのか…。私は、自分の信仰の弱さを悔やみました。父は、死の床で、牧師先生を待っていたのでしょう。ちゃんと救われて、天国へ旅立っていったのです。

10. 再び、トモコのトモは…

亀田さんの告別式のプログラムは、最終ページに故人愛唱歌の『インターナショナル』という労働歌と、その下に、教会からの出棺を見送る時によく歌われる、賛美歌405番『また会う日まで』が印刷されていました。

 

「かみともにいまして ゆくみちをまもり・・・」と、その賛美歌の出だしの部分を口ずさんだ時、私は、身体中に電流が走ったような衝撃を受けました。涙があふれて、その場に突っ伏してしまいました。共子のトモは、『神、共にいまして』の共なのだ・・・と気づいたからです。

 

大嫌いだった自分の名前は、天の御父の祝福を受け、地上の父が付けてくれた尊い名前なのだとわかったのです。そして、罪深い(これほど愚かな)私に代わって、何の罪もないイエス様が十字架にかかって下さったこと、私の罪を背負って下さったことが、衝撃とともに一瞬のうちに心に落ちました。

 

神様が、私という愚かな女に、似つかわしくない数奇な運命をお与えになったのは、ひとえに私と私の家族を救うためであり、私にこのことを語らせるためのご計画でした。『世のため、人のため』に福音を述べ伝えることこそ、私に与えられた使命なのだと確信しました。

 

今、私は、「私の母と弟も、夫の両親も、救われる日が来ますように」、「とりわけ、私のために辛い思いをしてきた母に、どうぞ主の恵みがありますように」、そして、「幼い娘のためにも、夫と一緒によきクリスチャンホームを築いて行けますように」と、心から祈っております。

 

父の存命中には、ついに良い所を見せられなかった私ですが、天国で再び父と会える日には、「世のため、人のため、そして神さまのために、共子はよく頑張った」と言われるように、これからの人生を歩んで行きたいと思います。

 

“主イエスを信じなさい。そうすれば、

あなたもあなたの家族も救われます”

(使途16:31)

  

かみともにいまして ゆく道をまもり、

 あめの御糧もて ちからをあたえませ。

 また会う日まで、また会う日まで、

 かみのまもり 汝が身を離れざれ。

  

荒野をゆくときも あらし吹くときも、

 ゆくてをしめして、たえずみちびきませ。

 また会う日まで、また会う日まで、

 かみのまもり 汝が身を離れざれ。

 

 御門に入る日まで、いつくしみひろき

 みつばさのかげに、たえずはぐくみませ。

 また会う日まで、また会う日まで、

 かみのまもり 汝が身を離れざれ。

 賛美歌405番『また会う日まで』